このブログは自分を高めて成功したいと願う筆者がどうしたら自分を高められるかを探求していくブログです。
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今日は経済学で有名なパラドックスでありながら、私たちにとって最も身近な問題について触れます。その問題は、これまでに取り上げた数学的なパラドックスに比べて、単純な話です。
疑問:どうして水は必要不可欠なものであるのにタダで、反対にダイヤモンドは役に立たないのに高価なのでしょうか。 この疑問は経済学の始祖と呼ばれるアダム・スミスが提唱したパラドックスです。この問題を取り上げるうえで重要なことは、使用価値と交換価値について理解する必要があります。例として、1つのボールペンを取り上げてみましょう。ボールペンは文字を書くという機能を果たします。つまり、ボールペンは道具として使用する価値があるのです。これが使用価値です。またボールペンは、お店に行くと100円ほどで購入することができます。つまり、ボールペンは100円で交換する価値があるのです。これが交換価値です。 このパラドックスを解決するために、アダムスミスは使用価値をの概念を無視した議論に持ち込もうとしました。彼は、価値を決めるものはもの自身がどれほどの使用価値をもっているのではなく、ものを作るのにどれだけの労働が投入されたかにあると、考えたのです。これが労働価値説です。たしかに水は川から取りに行けばいいだけですし、一方でダイヤモンドをとりに行くには、多大な費用がかかります。しかし、スポンサー企業がテレビ局に払っている広告料はどうでしょうか?広告を出すこと自体にかかるお金に対して、広告料はあまりにも高い気がします。アダムスミスの生きていた時代は、価値を生み出していたのは労働が中心だったのかもしれません。しかし、現在はサービス業中心であるので、労働価値説だけではすべてを説明することはできません。 企業がブランドを保つために意図的に価格を吊り上げていると考えることもできます。ダイヤモンドやブランド物はこれである程度説明がつきますが、これだけですべてを説明することは無理だと思います。水とダイヤモンドのパラドックスは、正しい答えをうまく立証できないから難しいと思います。 PR
先日、学校の帰りに電車に乗っていると、一人のサラリーマンと思われる男性がパソコンをやっていました。そのとき、なんでこんなところでパソコンをやる必要があるのかと思ったので、このことについて考えてみました。
電車の中でパソコンをやる理由は、主に2通りあると思います。第一にやり残した仕事があり、その遅れを取り戻すために電車の中でパソコンをやるパターン。第二に電車の中でパソコンをやることで、会社などの仕事場でやる事務的作業を減らす目的のパターンです。僕は電車の中でパソコンをやるのは、要領が悪いせいだからではないのかと考えていましたし、見苦しいとも思いました。そんな考えをある人に話してみたところ、「(電車の中でパソコンをやるのが)どうして見苦しいのか?」と言われました。さらに、電車の中でパソコンをやる人は要領が悪いのではないかと話したところ、そのひとは「(それで浮いた時間を)もっとクリエイティブなことに使えばいいじゃん。」といいました。 電車の中でパソコンをやる人は、やり残した仕事をかたづける目的だけでなく、電車の中で単純作業を終わらせて、会社でアイデアを練ったりするなどクリエイティブな仕事をする時間を、確保する目的があるかもしれません。だから、要領が悪いとか見苦しいと決めつけてはならないと思います。とはいえ、ワープロを打つ速度は、電車の中で作業するより、平らな机の上で作業した方がはるかに早いので、電車内でパソコンをやるのは効率はかなり悪いです。 パソコンは電車内でやるより会社で仕上げてしまって、クリエイティブなことを電車の中でやった方が効率よく仕事が進むと思います。電車内でパソコンをやる人は要領が悪いというより、効率が悪いと言った方がいいと思います。
前回のゼノンのパラドックスのシリーズ第一弾で、アキレスと亀を取り上げました。今回はそのシリーズの第二弾で、二分法について取り上げます。
ここで直線ABが存在するとします。AからB地点に移動するためにはABの中間点B1を通過しなくてはなりません。さらにAからB1へ移動するためには、AB1の中間点B2を通過しなくてはなりません。このようにして、AB間には中間点が無限に存在するため、A地点を出発することができないというパラドックスがおきます。 この矛盾について議論するのは、1メートルの線上に存在する点の数を数えることに等しいです。つまり、パラドックスはいくら議論しても永遠に解決しない問題だと思います。もし、二分法を見事に解決してしまったら、線上の点の数を数える方法を発見したということになってしまいます。 ところで、AB間には中間点が無限に存在するからといって、A地点を出発することができないというのは、なんかしっくりきません。アキレスと亀でも同じことが言えるのですが、無限に存在する中間点が運動を否定するというのが納得いきません。フランスの哲学者のベルグソンという人は、運動そのものは持続であって、分割は不可能であるとしています。たしかに、そのように考えればこの矛盾は説明されると思います。しかし、「運動そのものが持続である」とか「分割は不可能」というのが証明できないので根本的な解決になりません。パラドックスは永遠のテーマになりそうです。
皆さんは、法律の曖昧さを実感したことがありますか?実感したことがある人は、おそらく少ないと思います。この質問自体がかなり曖昧なので、それは仕方ないと思います。でも、僕を含めた人間は、曖昧な法律の統治のもとで生きています。そこで、僕は多くの人にとって身近な法律である道路交通法について取り上げ、それがいかにあいまいな部分を持っているかを、紹介していきたいと思います。そして、その曖昧さでうまく法律が機能していることも取り上げたいと思います。
今回はそのシリーズの第一回で、道路交通法における右左折に関する規定の曖昧さを、取り上げます。まずは、下の道路交通法三章第25条の引用をご覧ください。 道路交通法引用 第三章 2 、車両(軽車両及びトロリーバスを除く。)は、道路外に出るため右折するときは、あらかじめその前からできる限り道路の中央(当該道路が一方通行となつているときは、当該道路の右側端)に寄り、かつ、徐行しなければならない。 3、道路外に出るため左折又は右折をしようとする車両が、前二項の規定により、それぞれ道路の左側端、中央又は右側端に寄ろうとして手又は方向指示器による合図をした場合においては、その後方にある車両は、その速度又は方向を急に変更しなければならないこととなる場合を除き、当該合図をした車両の進路の変更を妨げてはならない。 (罰則 第一項及び第二項については第百二十一条第一項第五号 第三項については第百二十条第一項第二号) 重要なところは赤で強調しました。何が重要かというと、「あらかじめ」「できる限り」という言葉は、あいまいま言葉であるということです。もし、皆さんが会社の上司や学校の先生に頼みごとをされるとき、「あらかじめ会議の書類に目を通しておいて」「できる限りがんばって」といった言葉を言われたらどう解釈しますか。「できる限り」ってどのくらいのことかなんて普通は考えませんね。道路交通法の文章に話を戻せば、道路を左折(右折)する際に「あらかじめ」「できる限り」左側端(道路の中央)に寄れ、と言われても、何秒前から、どれだけ寄ればいいかわかりません。そこのところが非常にあいまいです。しかし、5秒前から、道路端から30センチまで寄れと言われても困りますね。あまりにも具体的過ぎて誰も法律を守れなくなってしまいます。法律の難しいところは、どこまで具体的な事例まで条文に盛り込むかだと思います。
前回のブログ記事(4月9日)でアキレスと亀の図を補足したいと思います。なにしろ、文章だけでは分かりにくいと思いまして…。画像は見づらいと思いますが、ぜひご覧ください。下記のURLをクリックすれば見ることができます。
http://easecook.ame-zaiku.com/kame.html アキレスがA地点に到着するころ、亀はB地点にたどり着き、アキレスがB地点にたどり着くころ、亀はC地点にたどり着く。このようにしてアキレスがかつて亀がいた地点にたどり着けば、亀はその地点から少し進んでおり、これが永遠と繰り返されるのでアキレスは亀に追いつくことができないという現実との矛盾が起きます。(この文章はリンク先にも書いてあります。) 4月9日の記事でもう1つ書き残したことがありました。それは、アキレスの亀に対する僕の見解を述べていませんでした。アキレスと亀は1つの考え方だとはおもいます。しかし、明らかに現実とは矛盾してますのでどこかしら欠陥があるはずなのです。その欠陥点が一見して分からないからアキレスと亀のパラドックスは考えさせられる問題なのです。 ゼノンのパラドックスは他にもあるので機会があれば取り上げたいと思います。 |
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